殷を滅ぼした後、前1046~前771年(及び~前256年)まで続いた中国の王朝。
前771年に異民族の犬戎(けんじゅう)の侵入を受けて東方に逃れ、それ以降は「東周」として続いた。
前771年に異民族の犬戎(けんじゅう)の侵入を受けて東方に逃れ、それ以降は「東周」として続いた。
(補足)
東方に逃れるまでを「西周」と呼び、都は鎬京(こうけい)。
東方に逃れるまでを「西周」と呼び、都は鎬京(こうけい)。
殷の滅亡&周の成立は「殷周革命」として呼ばれ、中国史上最初の明確な王朝交代であった。
中国の王朝交代には2タイプあるとされ、この時は殷の紂(ちゅう)王を放逐し、新たに周の武王を迎えたという「放伐」タイプの王朝交代であった。
(もう1タイプは、自分の子以外の有徳な人に譲る「禅譲(ぜんじょう)」タイプ)
周王朝は、封建制の下で地方の諸侯を管理し、王権を維持していた。
この時代に成立した「周礼」(「礼」は礼儀のことをイメージすればよい)は、政治的・社会的な制度を定めたもので、後の中国の統治体系に大きな影響を与えた。
また、周は「易経」や「詩経」などの重要な文学や哲学の作品を生み出し、中国文化の発展にも寄与した。
東周となってからは、都は洛邑(らくゆう。後の洛陽の前身)。
春秋時代・戦国時代も細々と存続したが、最終的には秦によって滅亡する。
なお、唐の頃に、一時期だけ則天武后が周という国を作ったが、それとは別件。
※ 理解を優先するために、あえて大雑把に書いてある場合があります |
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