世界史用語:プトレマイオス朝エジプト

アレクサンドロス帝国の分裂後にエジプトを支配した王朝(紀元前305~前30年)。
ギリシア文化と古代エジプトの伝統が融合し、特に都のアレクサンドリアは文化や学問の中心地として繁栄。

アクティウムの海戦(前31年)でクレオパトラがローマのオクタウィアヌスの勢力に敗れ、その後、滅亡。エジプトはローマの支配下に入る。

(補足)
アレクサンドロス大王の死後、帝国は後継者争いの末、分裂。エジプトはプトレマイオス(アレクサンドロス帝国の元将軍)によって掌握され、初代の王(ファラオ)となる。

まさにヘレニズム時代らしく、古代エジプトの信仰や習慣も存続しつつ、古代ギリシア文化も受け入れられたため、2つの文化が共存する形で発展。
都のアレクサンドリアには有名な図書館があり、多くの学者が集まって知識や情報を交換したりした。また、アレクサンドリアの灯台は古代世界の七不思議の1つとして知られるなど、都市自体が文化や技術の高さを示す象徴となっていた。

一方、紀元前2~1世紀の地中海地域ではローマが勢力を拡大し、エジプトもその影響を受けるようになる。
最終的には、クレオパトラ7世(いわゆる有名な「クレオパトラ」のこと)のとき、一時、カエサルとの間で関係を強化したが(愛人であったと言われる)、カエサルの死後、ローマでの勢力争いでアントニウス側につき、最終的にはアクティウムの海戦でオクタウィアヌス(後の初代ローマ皇帝)側の勢力に破れた。
このとき、クレオパトラ7世はコブラに噛ませて自殺したと言われている。

 

※ 理解を優先するために、あえて大雑把に書いてある場合があります

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