日本史用語:日露協約(にちろきょうやく)

日本とロシアの間で結ばれた協約。1907年、1910年、1912年、1916年の計4回
(補足)
※「協約」(agreement)という言葉自体は必ずしも国家間とは限らない “取り決め” のことだが、国家間で結ばれた場合の「協約」は実際には「条約」と同じ意味になる(どちらの呼び名を付けたとしても、法的拘束力に違いはない)
 
 
日露戦争後に日本とロシアの関係は好転し、1907年に第1次日露協約を締結。
① アメリカやイギリスの中国進出に対する警戒(=英米に手出しされない状況をさっさと作っておきたかった)や、② ロシアのヨーロッパ政略のための極東の平和維持(=ヨーロッパ方面を攻めたいので東アジア地域の話は片づけておきたかった)を目的に、日露両国の満州における勢力範囲が定められた。
加えて、日本の韓国保護国化とロシアの外蒙古(そともうこ)(現在のモンゴル国のエリア)に対する特殊権益をお互いが承認しあった。

第2次日露協約(1910年)では、アメリカの満州鉄道中立化案を阻止すべく、満州の現状維持と満州での鉄道に関する権益確保のための協力が約束された。

第3次日露協約(1912年)では、内蒙古(うちもうこ)(現在の中国北部でモンゴルに接しているエリア)の利益地域の画定がなされ、東側が日本の、西側がロシアの利益地域と定められた。

第4次日露協約(日露同盟)(1916年)では、日露と対立する第三国による中国支配の防止と戦争の際の援助・単独不講和が約束された。しかし、1917年のロシア革命でロシアが帝国が滅亡すると日露協約は破棄された(国が変わったため、なかったことにされた)

 

※ 理解を優先するために、あえて大雑把に書いてある場合があります

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