日本史用語:承久の乱(じょうきゅうのらん)

後鳥羽上皇が鎌倉幕府に挙兵して敗れた戦乱。1221年
(補足)
後鳥羽上皇は院政を始めてから西面の武士(さいめんのぶし)を新設し院の軍事力強化を図った。また朝廷権力を回復させるため源実朝に影響を与え、鎌倉幕府を動かそうとしたが、実朝が亡くなって以降朝幕関係は悪化した。
そして後鳥羽上皇は院近臣(いんのきんしん)や西国武士らに対し鎌倉幕府の執権北条義時を追討するよう命じて承久の乱が始まったが、思うように兵が集まらず、北条泰時・時房(ときふさ)軍に敗れた。

承久の乱の結果、後鳥羽上皇は隠岐に、土御門上皇(つちみかどじょうこう)は土佐に、順徳上皇は佐渡にそれぞれ配流された。またこの戦乱後、朝廷を監視する機関として六波羅探題(ろくはらたんだい)が設置された。

 

※ 理解を優先するために、あえて大雑把に書いてある場合があります

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