<ポイント>
・4世紀の朝鮮半島では、高句麗・新羅・百済の三国が対立していた
・大和政権は百済と組んで、高句麗や新羅と戦っていた
・大和政権には5人の王がいて、中国に使いを送っていた
・4世紀の朝鮮半島では、高句麗・新羅・百済の三国が対立していた
・大和政権は百済と組んで、高句麗や新羅と戦っていた
・大和政権には5人の王がいて、中国に使いを送っていた
(1)4世紀~5世紀の朝鮮半島
4世紀の初めころに高句麗が楽浪郡を支配し、そのあと4世紀半ばに半島の南東部に新羅がおこり、南西部に百済がおこりました。
そして、この三国が対立しあうようになりました。
4世紀の初めころに高句麗が楽浪郡を支配し、そのあと4世紀半ばに半島の南東部に新羅がおこり、南西部に百済がおこりました。
そして、この三国が対立しあうようになりました。
(2)百済と大和政権
大和政権は百済と組んで、高句麗や新羅と戦うことになりました。
そのおかげで、百済からさまざまな文化が日本に入ってきています。
・漢字と儒教:5世紀の初め頃に伝わった
・仏教:6世紀に伝わった
この他にも、水の流れを整備する土木技術や、固く黒い須恵器(すえき)と呼ばれる土器をつくる技術も伝わってきています。
(3)大和政権の5人の王
「大和政権には5人の王がいる」と、中国南朝(宋)の歴史書「『宋書』倭国伝」に書かれています。
そして、この5人の王たちは、使いを送って貢ぎ物を渡して、中国の皇帝から「大王の地位」「朝鮮半島の指揮権」などを認めてもらおうとしていたようです。
<補足>
「大和政権の5人の王」のことを、「倭の五王」と呼ぶこともあります。
この五王とは「讃・珍・済・興・武」の五人を指すのですが、正確にどの人物を指すのかは分かっていません。
「大和政権の5人の王」のことを、「倭の五王」と呼ぶこともあります。
この五王とは「讃・珍・済・興・武」の五人を指すのですが、正確にどの人物を指すのかは分かっていません。
ただ、稲荷山古墳で発見された鉄剣に刻まれた「ワカタケル大王」は、この五王のうちの「武」であると考えられています。
<まとめ>
・4世紀の朝鮮半島では、高句麗・新羅・百済の三国が対立していた
・大和政権は百済と組んで、高句麗や新羅と戦っていた
・大和政権には5人の王がいて、中国に使いを送っていた
・4世紀の朝鮮半島では、高句麗・新羅・百済の三国が対立していた
・大和政権は百済と組んで、高句麗や新羅と戦っていた
・大和政権には5人の王がいて、中国に使いを送っていた
※ 理解を優先するために、あえて大雑把に書いてある場合があります |
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