中学歴史:弥生時代のくらし

<ポイント>
・紀元前4世紀頃に稲作が伝わり、高床倉庫に収穫したものを蓄えていた
・女王・卑弥呼邪馬台国を治めていて、中国の魏に貢ぎ物を送っていた
・貧富の差が生まれ、「くに」ができ、くにの間で争いが起こっていた
紀元前4世紀~紀元3世紀ころまでを弥生時代といい、その文化を「弥生文化」といいます。

(1)稲作のはじまり
紀元前4世紀頃、大陸から稲作が九州北部に伝わり、それが日本全国へと広がっていきました。

この稲作のようすを確認できる有名な遺跡には、以下の3つがあります。
・板付遺跡(福岡県)
・登呂遺跡(静岡県)
・唐子・鍵遺跡(奈良県)

これらの遺跡からは、水田の跡が発見されているので、当時の農耕のようすが分かります。

・田げた:湿地を耕して、もみを撒くときにはくもの
・石包丁:稲の穂を刈り取るのに使うもの
高床倉庫:収穫した稲の穂を蓄える倉庫(他の動物に食べられないように高くしていた)

(2)金属器と土器
稲作とともに、「金属器をつくる技術」が大陸から伝わってきました。
銅剣・銅鏡・銅鐸(どうたく)などの青銅器は、祭りの際の宝物として使われていました。
青銅器とともに伝わってきた鉄器は、武器や農具などの日常で使われるものに利用されました。

弥生時代につくられていた土器を弥生土器といいます。
弥生土器は赤褐色をしていて、縄文土器と比べて「うすく、固い」ものになっていました。
また、縄文土器に見られた模様(飾り)は少なくなっています。

(3)「くに」の成立
(弥生時代になり)稲作がはじまると、「支配する側」「支配される側」という立場の違いが生まれました。
これが貧富の差につながり、「支配する側」がどんどん力をつけていきました。

小さな「むらとむらの争い」が起こり、勝ったむらが負けたむらを従えることで、より規模の大きな「くに」ができていきました。

その中でも、九州北部にあった奴国(なこく)の王は後漢の光武帝に貢ぎ物を送り、皇帝から金印を授けられました。

(4)邪馬台国
邪馬台国は3世紀に存在した国で、女王・卑弥呼が治めていました。
30ほどの「くに」を従えていたような大きな国で、まじないによって政治を行っていました。

また、邪馬台国は中国の魏に使いを送っていたという記録が『魏志』倭人伝(魏の歴史書)に書かれています。
「親魏倭王」という称号をもらったこと、銅鏡をたくさんをもらったことなどが書かれています。

<補足>
「奴国の王がもらった金印」と「邪馬台国からの使いがもらった金印」は別のものなので注意しましょう。

「奴国の王がもらった金印」は『後漢書』東夷伝に書かれていて、1784年に福岡県の志賀島で発見されました。
これには、「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」と刻まれています。

<まとめ>
・紀元前4世紀頃に稲作が伝わり、高床倉庫に収穫したものを蓄えていた
・女王・卑弥呼邪馬台国を治めていて、中国の魏に貢ぎ物を送っていた
・貧富の差が生まれ、「くに」ができ、くにの間で争いが起こっていた

 

※ 理解を優先するために、あえて大雑把に書いてある場合があります

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