〔質問〕 江戸幕府が行なった海外に対する政策は、本当に鎖国と言えたのでしょうか? |
〔回答〕 以下に、江戸幕府の外国との関係を記載していますので参考にしてください 鎖国とは、江戸時代初期~末期に幕府が「(日本)国内の支配のために、外国との関りを制限する」政策です。 キリスト教を布教する心配のない、中国・オランダの二国のみ来日を許可し、他の国とは関りを持たないようにしたものです。 江戸時代のはじめ、外国との貿易やキリスト教を受け入れてきましたが不都合が生じるようになりました。 ・信者が主君(大名や幕府)よりも神を敬うようになったこと ・信者が団結して一揆を起こす可能性があること ・貿易によって利益を得て、大名の力が大きくなること などが、国内支配の妨げになると幕府が判断して、鎖国体制をとることになります。 鎖国体制のはじめは、中国・オランダ・ポルトガルの船のみ来日を許可していました。 しかし、ポルトガルは日本でキリスト教の布教をしたため、1639年に来日が禁止されました。 1941年、オランダ商館を出島(長崎)に移したことで、「中国とオランダのキリスト教を布教しない二国とのみ関りを持つ」ようにしました。(鎖国の完成といいます) とはいえ、実際は他の国と関わりが少しですがありました。 ・朝鮮通信使…将軍の代替わりごとに、日本に祝賀に来ていた使節 ・琉球…薩摩藩と中国の両方とも交易をしていた ・蘭学…8代将軍吉宗がキリスト教に関係のない本の輸入を許可したことにより広まった西洋の学問 19世紀になると、外国船が日本へ接近するようになりました。 これに対し、幕府は異国船内払令を出して鎖国を守ろうとしましたが、少しずつ開国へと傾きます。 1854年、ペリー(アメリカ)が来航し、日米和親条約を結んだことで下田(静岡)と函館(北海道)を開港しました。 1858年、日米修好通商条約を結び、函館・新潟・神奈川・兵庫・長崎の五港を開港することとなります。 このまま江戸幕府が倒れ、明治維新へと進み、外国との関りが急速に強くなるようになりました。 |
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