・聖徳太子は593年に推古天皇の摂政となり、政治を支えた
・家柄に関係なく「才能や功績のある人を登用する」冠位十二階を制定した
・仏教や儒教の教えを取り入れた「役人の心構え」を十七条の憲法という
「摂政」とは、天皇が女性やまだ幼い場合に、「天皇の代わりに政治を行う」役職のことです。
摂政に就いた聖徳太子は、蘇我馬子と協力してさまざまな政治の改革を行いました。
(1)冠位十二階
これまで政治の世界では、官位や職務は家柄に応じて世襲していくのが一般的でした。
(世襲とは、親から子に役職などを受け継いでいくこと)
しかし、この世襲をやめようと聖徳太子は動きました。
603年、家柄に関係なく「才能や功績のある人を登用する」冠位十二階を制定しました。
色で分けられた冠を与え、十二の冠位を設定したということです。
(2)十七条の憲法
仏教や儒教の教えを取り入れた「役人の心構え」を示しました。
これを十七条の憲法といいます。
こちらには、
・人の和を大切にして、争わないようにすること
・仏教を信仰すること
・天皇の命令には従うこと
などのことが示されていました。
(3)遣隋使の派遣
607年、小野妹子らを隋に「遣隋使」として派遣して、国交を結ぶようにはたらきかけました。
翌年、留学生や学問僧なども一緒に派遣することで、隋の制度や文化を学ぼうとしていました。
(4)飛鳥時代の文化
推古天皇の即位した7世紀ころ、朝廷は飛鳥地方(奈良県)にありました。
この時代を飛鳥時代とよび、この時代に栄えた文化を「飛鳥文化」といいます。
飛鳥文化の特徴は、「仏教の教えが取り込まれた文化」ということです。
(日本ではじめての仏教文化)
仏教以外にも、中国や朝鮮、ギリシャや西アジアなどの世界の文化も取り入れられていました。
・法隆寺:現存する「世界最古の木造建築物」で、聖徳太子が建てた寺
・釈迦三尊像:法隆寺にあり、聖徳太子の遺族がつくらせたもの
・玉虫厨子:厨子とは仏像などを保管するための扉のついた家具で、法隆寺にある
玉虫厨子に見られる「唐草文」(唐草模様)は、ギリシャで流行していたもので、中国や朝鮮を通して日本にも伝わってきたと考えれています。
・聖徳太子は593年に推古天皇の摂政となり、政治を支えた
・家柄に関係なく「才能や功績のある人を登用する」冠位十二階を制定した
・仏教や儒教の教えを取り入れた「役人の心構え」を十七条の憲法という
※ 理解を優先するために、あえて大雑把に書いてある場合があります |
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